床に転がるトルソーの頭を、おもむろに持ち上げた。小さな掠り傷が無数にあるそれを眺め、私は膝を抱えて床に座り込む。少し距離を取った場所に、Nは同じように座り込んでいる。彼は茫洋と埃にまみれた画材や絵を眺めていた。
泣き疲れて腫れた瞼はずいぶんと重い。脊椎が軋むような倦怠感を引きずりながら首を持ち上げ、頭が取れたトルソーを見詰めた。傍らにはキャンバスがある。中途半端に描かれた下絵は、トルソーのようだった。……彼女が最後に描いた絵は、これだったのだろうか。澱が底に溜まったような頭で思索した。そして意味も理由もなく、ぽそりと声を漏らした。

「ここ……」
「!」

私の声に、彼が反応する。緩慢な動作で向けられた視線が頬に触れた。静かな呼吸音が部屋に響く。それに言葉を続ける。

「ここのアトリエの人、何年か前に自殺してる、の」

ダイゴの恋人の姿が脳裏によぎる。写真の中で温かな笑みを浮かべていた彼女は、真冬の凍り付くような絶海に命を沈めてしまった。すると、「だからキミも死ぬのかい」と、Nは無遠慮に言葉を吐いた。抑揚に欠けた声には感情は見えない。壁に吸い込まれていく音を追うように宙を見詰め、私はわからないと曖昧な言葉を返した。彼は次の言葉を待つように再び口を閉ざした。しんと張り詰めた静寂が、冷気とともに肌に容赦なく突き刺さる。

「わからない」
「……」
「何も。もうわからなくて。どうやって生きていけばいいのかわからなくて。どうやって生きてくれば、こんな思いしないで済んだのかわからなくて。どう、生きてきたのかわからなくて」
「……ふうん」
「疲れ、ちゃったかな」

膝に顔を埋め、ギュッと目を瞑る。彼はひどく詰まらなそうに声を漏らした。黒に閉じた視界に、瞼が再びジワリと熱を持った。
唯一頼ることができる相手でもあった。自分の居場所であると信じて疑わなかった。その結末がこれなのだ。明日になれば、まるで何事もなかったかのように、ぼんやりとした毎日が続いていく。この不安も虚しさも寂寥も、一過性のものだと言われてしまえばおそらく否定はできないだろう。私は現に、死ぬこともできずにいるのだから。
もちろん死んだとしても、何も変わらない。葬儀の為の経済的な負担を親族にかけるだけだ。そちらの方が、ずっと迷惑だ。
私のように、自堕落な毎日を送る人間の「死にたい」だなんてふざけた衝動は所詮一時的なものだ。人の痛みに鈍感で、別段大きな苦しみを抱えているわけではない。保身の為に被害妄想にとらわれ、自己弁護の言葉ばかり用意する。自分のことばかりだ。他の誰かの為に、なんて――。

「ダメだな……私」
「……」
「自分のことばかりで、自分のことしか考えられなくて、それで誰かに必要とされるわけないのに。全然、ダメ」
「……じゃあ、ボクも同じかもしれないな」
「!」

コトン、と軽い音を立ててトルソーの頭が指から抜け落ちる。恐る恐る覗き見るように窺った彼の横顔は、窓から見える冷えた空を見上げていた。

「優しく生きるには、遅すぎたんだ」
「……」
「そう思わないかい?」
「どういう、こと」
「……ボクのこと」
「私はまだ会ったばかりだし、Nのこと、よく知らないから。あまり、わからない」
「……そっか。でも、手遅れだと思うんだ。ボクは間違っていたから。仕方ないんだ。諦めたんだ。ダメだった。ボクはバケモノだから、不完全だから」

唐突に知らされる言葉に、頭がついていかない。それは途方のない悲劇を引きずる御伽噺のような響きを孕んでいた。彼の視線は依然として外を見つめている。時間が止まってしまったかのような空間で、私はゆっくりと瞬きをした。冷えた空気が気道を軋ませ、体温を奪っていく。上手く回らない思考から、幼稚な言葉を引きずり出した。

「なんでそんな……。誰かに言われたの?」
「さあ」
「N」
「ボクも疲れてしまったんだ。やり直しなんてできないだろうし。こんな世界で、ひとりで生きていくだけの力量もない。諦めたんだ。でも、死のうとして、それが無意味だと知ってしまった。どうすればいいかわからなくなっていたら、キミにまた会ったんだよ」
「また=c…? 海で?」
「そう、それであの弱ってるゾロアを見て、助けたかった」

エゴだったけれど。自嘲と共に吐き出される言葉は冷気に溶けた。
――彼の思いがエゴならば、私の思いもまた幼稚なエゴだ。祖母の生活の助けをするという建て前を振りかざし、あの小さなゾロアを縛っていた。
私の献身は、支配と同義だ。
ちくりと胸中に痛みが走った気がした。
するとおもむろにこちらにその湖面の瞳が向けられる。所在なさげな不安定さを宿したその色は、私に何を訴えたかったのだろうか。視線に耐えきれず、私は俯いた。
そうして訪れた沈黙は、ほんの数分間程度であった。しかし嫌に長く思考を煽り、逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。
逃げ場を提案するように、私は言葉を吐いた。

「ゾロアに、会える?」
「!」
「会えるかな……」

もう一時間前になるのだろうか。彼がポケモンセンターに連れて行ったゾロアに、会えるだろうか。逃げ場とした発した答えにしては、ずいぶんと平凡なものだった。彼は僅かに考えるような仕草を見せた後、明日にならないと無理だよ、と苦い笑みを零した。時刻は14時を回る。
そういえば、まだ昼食を取っていない。今日はパスタにする予定だった。彼の横顔を眺めながら、そっと口を開く。

「お昼、まだ?」
「ああ、うん」
「パスタで、いいかな」

立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。関節がギシリと軋み続けた。彼もまた私に倣い、立ち上がる。そして不意に、私の指先を握った。私の冷えた手よりもずっと冷たいそれに、一瞬だけ肩が強ばった。振り返った先の彼は、首を傾げて口を開いた。

「繋ごう」
「……なんで?」
「倖せそうだったから」

彼は再び窓の外を見る。先ほど座り込んでいた私には見えなかったが、窓の向こう側を――海岸を、親子らしき女性と少女が歩いている。
手を繋いで歩く姿は、こんな寒い日でもひどく幸せそうに映った。
右手に触れる冷たい体温を握り返し、私はそっと息を吐いた。

「……うん」

どうして同じことをしているのに、こんなにも物足りないのだろう。




20111121

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